行動力モンスター と 考えすぎる変人 の対話

学び

今日は、Sさんという行動力のモンスターのような女性と『自己理会』を行った話。

たばこや
たばこや

導入もオチもない話です。

「わぁ、この人、誰かと話しているとき 頭の中でこんなこと考えているんだぁ」っていう たばこやの変人思考っぷりを楽しめる方向けの記事です。

色々と考えるのが好きじゃない方は、同じ人間と思わず、動物園の珍しい動物を眺めるときの あの気持ちで読んでください。。

そもそも『自己理会』とは

私は、「自分らしく幸せに生きる人が増える社会を創る」ことを人生のミッションにしている。それはもう大切にしていて、毎朝のトイレでミッションを唱えている。

これ、よくよく考えたら、家族からはどう見えているんだろう?

毎日独り言をつぶやきながらトイレしている旦那って怖いよね。。。

、、話がそれました。

『自己理会』とは、「自分らしく幸せに生きるってどういうことかな」ということを体系立てて整理したプログラムのことです。例えば、一緒に生まれた時から今日までを振り返って話を聴いたり、一緒にマインドマップを作ったりします。

これが、めちゃくちゃ楽しい。「あ、確かに私ってこういう特性かも。。」と、一緒に心で理解できるのが嬉しくて仕方がない。

『自己理会』は守秘義務のルールの上で行っているので、私にとっても とても学びになった一部分だけ、Sさんに許可をもらっての紹介。

すみません。本編に入る前にどうしても触れさせてください。。

たばこや
たばこや

チャッピー(chatGPT)お前、、

たばこやのぽっちゃり具合の再限度高すぎないか。。

なんだその無駄に高いクオリティ。

ちょっとカッコよい感じに生成してくれても良いだろう。。

、、本題に入ります。

思考の壁打ち相手に嫉妬した話

Sさんと前回の『自己理会』で、才能にフォーカスした話をしていた中で

  • 良心に正直に生きることに引力が働く
  • 心や頭の整理をする才能

という特性に、一緒に気付けていた。

今回は、その特性に気付いてから 2週間くらい過ごしてみての出来事や感情・思考についての対話。

話をしていると、Sさんから聴ける話は 2週間しか経っていないと思えないほどの思考の量。本当に 色々な話を聴ける。前回の『自己理会』からの期間で これだけなんでも考えているのが もう「心や頭の整理をする才能」だなぁと感じながら会話を楽しむ。

同時に、会話の中で、明らかにSさん1人の思考じゃない部分を感じる。

たばこや
たばこや

Sさん、なんか、周りにめちゃくちゃ良い壁打ち相手がいませんか?

話に出てくるSさんの思考の壁打ちのレベルが高い。

Sさん「実は、、今の彼氏がめちゃくちゃ思考の深い人で、めっちゃ壁打ち相手になってくれるんです」

、、、嫉妬。

純粋に、「いいなぁ」と思ってしまった。

嫉妬なんて認めるのは恥ずかしいし、自分でも私自身のそんな感情なんて気づきたくなかったけど、Sさん自身のことも、Sさんの彼氏さんのことも、うらやましく感じた自分が確かにいた。

対話のときは、とっさに小さく胸にしまい込んだ。けれど、後で日記を書いていて、見過ごせなかった。

▶ Q:なぜ、うらやましく感じたのか。

それは、こういう 頭に浮かんだ「なぜ」を一緒に考えること そのものを楽しめる関係性の人が パートナーで在ることに対して、そうじゃない自分を見てしまうから。

私は、後天的に急激に思考整理を進めた弊害で、それよりも前からパートナーであったちささん(妻)と、「なぜ」について掘り下げ合う関係にはなれていないし、私は それに苦労している

ちささん目線で考えると、私より100倍苦労していると思う。ちささんの特性からしたら、私の価値観とか 知ったこっちゃないしね。

▶ Q:なぜ、ちささんと深い関係性になれないのか。

それは、ちささんが負の環境の中でも順応して上手く生きていく才能の持ち主で、余暇家族が価値観の人だから。

私は ちささんの才能を尊敬している。

子どもが生まれた当初、私の仕事の都合で引っ越した長野で、頼れる人もいない中、私も会社の犬だったので早朝から深夜まで家には帰れず、本当に苦労をかけた。

でも、ちささんの才能はすごくて、そういう環境でも その中で上手く自分の楽しみを見つけてちゃんと幸せに生きていたらしい。

そういう恵まれない環境の中で、ちささんが その環境の中の上手い居場所を作って来た話はたくさん知っている。

だから 逆説的な話で、深く考えない人だから、私が何者でもないあの頃に 一緒に生きていく決断をしてくれた。そして結婚した。ちささんの 深く考えなくても幸せになれる特性に、私は助けられてきた。

でも今、深い話大好きマンになった私は、ちささんが深く考えない人であることに 物足りなさを感じている。

「もっと深く話し合えたら良いのに」 と。

なんだそりゃ と思うよね。

それでも 私は、「だから仕方ない」って諦めたくない人間らしい。ちささんとの出会いに意味があってほしいと考えてしまう。

▶ Q:もし ちささんと深い話が出来ていない、つまり、私の中の大切なエネルギーが家庭で満たされないことに意味があるとしたら?

それは たぶん2つの方向性だと思う。

  1. 納得感を満たしあえるコミュニティを創る使命
  2. 納得感属性じゃない人との最適解を探求する使命

そう考えると、私は救われる。

胸の奥の嫉妬の感情が 使命を果たすエネルギーに変わる感覚。

私は、私の中にある嫉妬の感情に気付いて、そして、向き合って良かった。

悲劇に溺れない。強く美しい特性とは。

Sさんと話せば話すほど、その思考の背景を知りたくてたまらなくなり、質問を深める。2024年の5月~7月頃から急激に変わったという、その変化について深掘り。

何が有ったら、人は半年ちょっとでそんなに変われるんだろう?

Sさんはそのころ、ずっと続けてきた仕事を辞め、ほとんど同じ時期にずっと付き合ってきた彼氏と失恋し、さらにご家族の病気の容体が悪化した。

環境の変化が重なった。

Sさんはそれまでの生き方に対するもやもやした感情に襲われた。

「ずっと、なにやってたんだろう。。」って。

彼氏とは「なんで こんな人と付き合っていたんだろう」という気持ちが強くて、同時にご家族の病状の悪化が、時間は有限であることを残酷なまでに伝えてきた。

でも Sさんは、過去の自分の選択だから後悔だって思いたくなかった

ここが、Sさんのこの発想が、特異点

会社に対する嫌な気持ちも、元カレに対する不満も、簡単に他人のせいにできるポイント

落ち込んでいる自分を最優先して、友達に慰めてもらう悲劇の主人公ムーブを取った方が、簡単で、快適。実際にそれを選択する人が多いと思う。

▶ でも、Sさんはそうしなかった。なぜ、そうはならなかったのか?

話を聴いていて強烈に感じる。

Sさんには、圧倒的な自己意識負けず嫌いの特性がある。過去の自分が、他人に決められずに、自分で選択・判断をしている。だからこそ、人のせいにしない。

美しい特性。

Sさんの、この自己意識の源泉が気になるので、次回の『自己理会』で聞いてみよう。

「職業」という線引きとルールは 誰が何のために決めたのか

Sさんの学生時代に進路・職業選択のときに訪問看護を選択するエピソード。

「将来の職業は何をしたいか」を考える。

初めは「人と関わる仕事」というくらい 解像度が粗かった。当時のSさんは、とにかく本などで解像度を上げていった。

その中で、看護師の方が書いた本(職業紹介というより、ご自身の看護感やエピソードの紹介に近い本)に出会った。「”病気を診る” のではなく “人を看る”」という言葉に強く惹かれた。

そうした 自分の未来への納得感を高めるための行動と思考の中で、Sさんは「人が生きることに貢献したい」という自分の中の納得感を高めていった

本当に 面白いし尊敬する。Sさんらしさが溢れていて、夢中で聞き入った。私がどんどんとSさんの人生に沈んでいく感覚が心地よかった。

学生の時点で「人が生きることに貢献したい」という自分の中の納得感に 一定たどり着いていることがすごすぎる。

私が学生のときは何を考えていただろう?

「外部模試で声かけた子が、めちゃくちゃタイプだったから、俺はこの子と同じ大学に行く!!!」

そんなことを、心から言っていた過去の自分を思い出して恥ずかしくなる。あの 浅はかな少年Dを、親や先生や友人は なぜ 誰も止めてくれなかったのだろうか。。

「病気を診る」じゃなくて「人を看る」は本当に美しい考え方だと思う。おそらく、当時のSさんにとっても、この言葉の納得感が本当に強かったんだろうなと思う。今もSさんは、色んな未来の選択肢について話すときに「人を看る」を最優先しているのが伝わる。

だからこそ もったいないなとも思う。

「人を看る」という本質を追い求めるときに、Sさんは、職業の枠にとらわれた考え方をしている

看護師という言葉から「人を看る」にたどり着いた経緯からなのか、必ず看護師という職業のくくりの中に自己を置いて思考する。世の中に既に存在している看護に近い様々な職業について、自分と会う合わないを思考・検討して、「この部分が不安だし 私に合わないかもしれないけれど、■■■の仕事をする」というように話す。

私は、看護師という誰かの決めたルールをよく知らない。

昔は「漢の国の医学とやらの本を読んだことのある博識なAさん」とか「西洋の医療について学んだBさんのお手伝いをしているCさん」とか、そんな認識だったのではないだろうか。

いつしか、お医者さんのお手伝いをする人を 当時女性がやっていた時代背景から「看護婦」さんと呼ぶ言葉が日本で定着して、そこに 当時医学会で自称権力を持っていた人たちが「看護婦とはこういう基準を満たした人です」という線引きや免許のルールを決めていったんじゃないだろうか。

そんな、誰がどうやって決めたかも分からないルールに 縛られる必要ってあるんだろうか?

私はシンプルに「人を看る」という発想から考えてしまう。

人生のお金について網羅的な知識を持って家計に寄りそうライフプランコンサルタントがいるように、人の健康について網羅的な知識を持って個人に寄りそうヘルスコンサルタントっていう職業を自分で作っちゃえばいいのに。

私が思考という側面から「人の人生に貢献したい」と考えているように、Sさんは体という側面から人に貢献できるだけの能力も行動力も運命も持っているように思う。

Sさんは労働者という枠組みの思考から脱却すれば、世界は無限に拡がると思う。

ん。。だから私だったのか。

私という特異点と Sさんという特異点が 針の穴を通すような確立で 今深く関わっていることに意味があるとするならば、そこに示唆を感じられるように、心の耳を澄ますならば、Sさんを労働者という枠組みから解放するのが私の役割なのだろうか。。?

これはアンテナだな。

日常の出来事に耳を澄ましながらも、流れを極端に変えに行く動きは取らない。

私は変わらず、思考の側面から人生に意味を見出す存在で在り続ける

と、ここまでがSさんと『自己理会』を始める前にしていた雑談のほんの一部。

こんなことを考えながら雑談をしていたら、雑談で4時間経っちゃって、『自己理会』が出来なかったという話です。

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