自己犠牲を伴う「誰かのため」をどう思うか。
夕方仕事がひと段落してきた頃に、バン!バンバン!と窓を打ち付けるあられの音。
外に目をやると、激しいあられ。
ふと、ちささん(妻)のことを考える。ちささんは最近、歩いて仕事に通っている。だから帰りももちろん徒歩。傘は持って行っただろうか? ひょっとしたらこのあられの中を傘なしで帰ってくることになるかもしれない。迎えに行ったら喜んでくれるだろうか。

でも、同時に自分のことも考える。
ようやく会社の仕事で今日やりたいところはやり切って、本当なら今から内省時間を取りたい。先週の日記を振り返って1週間の振り返りをする習慣があるのだが、この週末にその時間を取れなくて、いつもの習慣が出来ていないことが気になっている。
自分の心の余裕を確保することも大切。
「誰かのために」という思いやりは素敵だけど、自己犠牲を取りすぎると、結果が期待通りにいかなかったときに、その誰かを責めてしまう。
悩む。。。
決めた。
「ちささんを迎えに行く」と「自分の時間を確保する」を両方獲得しよう。
ちささんを迎えに行く。ちささんには「後で心の余裕を大切にする時間を取りたい」ということを伝える。そのまま子どもを保育園に一緒に迎えに行く。ちささんが子どもの教室に行っている間に私はドミノピザを注文する。帰りにそれを受け取り、食事の準備の時間を短縮する。

これで自己犠牲なく「誰かのため」ができる。
完璧。
120点の解決策に思われた。が、、、
「惰性」が「理性」より強くなる環境
ドミノピザは美味し過ぎる。
全ての原因はそこにあったと思う。
無我夢中でピザを食べた私は、美味しいものを食べた満足感に包まれる。お腹がいっぱいになったことで、脳内のプログラムが作動して「そろそろ寝る時間?」と体に信号を送ってくる。つまり、眠くなる。

惰性のたばこやが言う「このまま子どもとお風呂に入って、寝かしつけまでしたら、ちささん喜ぶんじゃない?」
いやいや、それだと何のためにピザを買ったのか分からない。自分の時間を確保するためだったじゃないか。
惰性:「その分 早起きしたら良いじゃん」
結論。
惰性の勝利。
次回からは、「理性」が「惰性」に勝てる環境を考えるようにしよう。ピザを数枚だけ取り分けて、私だけデスクで作業しながら食べる、というような環境構築ができるようになりたい。
「惰性に負けてしまったダセェ私」という結論に見えたこの判断。
翌日、再度逆転することになる。
雪かきを楽しめる人間で在りたい
翌朝、目が覚める。4:15。まだ真っ暗な外に目をやると、深々と積もる雪。
「雪だ。。。」
「雪だ!!!」が「雪だ。。。」に変わったら、大人になった証です。
新潟唯一の20代のお笑い芸人のオダニさんが、言っていた言葉を思い出す。
雪かきをするなら、積もりたてに限る。
昨晩に積もったばかりの雪はまだ日が出る前ということもあり、水分を帯びておらず、ふわふわと軽い。除雪のスコップがさくさく入るし、すごい量の雪を一気に動かせる。めちゃめちゃ力持ちになったと脳を錯覚させられる。

夢中で雪かきを楽しんでいたら、気づいたら1時間弱経っていた。
程よくかいた汗が、いつの間にか昇っていた太陽に光る。冷たい空気が火照った体を冷やしてくれる。
「朝から頑張っていたね~」近所のおばあちゃんに声を掛けられる。こういう雪かきする人同士の仲間意識が生まれるのって、なんかすごい好きだなと、じんわりした気持ちに包まれる。
雪かきって良いよな。
- 適度な運動になる
- 誰にでも喜んでもらえる
- 仲間意識が生まれる
1時間以下の雪かきなら、健康にもなるし、感謝されて心も満たされるし。私は雪かきが好きだなぁ。
すごく満たされた気持ち。

早起きできて良かった。
これが時間のない朝だったら、「ヤバいヤバい」って言いながら、自分の影響の範囲外にも関わらず雪に対して嫌な気持ちになっていたかもしれない。
私は、雪かきを楽しいと思える人、つまり、それだけの余裕を確保できている人間で在りたい。しみじみとそう思った。
だとしたら、昨日は早く寝て、正解だった。
昨日の夕方に「ちささんのために」と思って判断したことが、巡り巡って、今の この満たされ感を作っている。
心地よい気持ちのまま、私は車に乗り込んだ。
気持ちよい朝日の中、職場に向かって走り出した。

強烈な結末から示唆を考える
「しまった。。」
職場まで半分近く来たところで気づいてしまった。
なんか運転がしづらいと思ったら、スノーシューズを履いてきてしまった。雪かきが気持ち良すぎて、そのまま来てしまった。

うわぁ、、今日 ちささん、職場の駐車場の雪かきがあるから、このスノーシューズ履きたいって言ってたなぁ。。。しかも私も今日の午後 新潟市役所で打ち合わせがある。さすがにスノーシューズで行くのイメージ良くないかな。。?
でも、雪の日の新潟市の道の込み方はえぐい。私は結構早めに出られたから、ここまではスムーズに来れたけど、靴を履き替えに戻っていたら、絶対に渋滞に巻き込まれるよなぁ。。。
悩む、、けど、別に履き替えに戻っても遅刻するわけじゃないし、早起きしたからこそ履き替えに戻れる時間の余裕もあるわけだし、履き替えに戻ろう。
私は、朝の通勤ラッシュに差し掛かろうとしている道を、逆戻りすることに決めた。
家の前に車を一時停止して、玄関に向かう。

ヤバいヤバい!スノーシューズそのまま履いてっちゃってた!
そう言いながら玄関を開いた私は、衝撃的なものを見て、言葉を失った。

なんと、パソコンもリュックも、仕事の荷物のすべてを玄関に置きっぱなしだった。
ヤバすぎる!!
あっぶねぇええええええ!
なんていうか、、仕事に行くのに、仕事道具をすべて忘れて行くという 私の記憶をなくす才能を痛感する。
戻ってこなかったら終わっていた。職場についてから荷物を忘れていることに気付いたら、絶対に間に合わなかった。靴を履き替えに戻ってきて良かった。
スノーシューズを履いてきてしまったことに気付いたときには 悩んだけれど、ちささん目線を優先して引き返して来てよかった。すごい示唆的な出来事。
▶ Q:これがもし示唆だとしたら、その意味はなんだろう? つまり、この一連の出来事に意味があると仮定した場合、自分を俯瞰して(神様目線で)どういう意味があるのだろうか?
うーーーん、直感は情けは人の為ならず(自分のため)的なことだろうか? ちささんのことを考えたことが、結果 自分のためになった。
でも、しっくりは来ないな。今回は、かなりたまたまだったわけで、単に「情けは人のためならず」を行動基準として納得するのは危険だとも思う。
だとしたら、示唆はなんだろう?
、、やはり「ちささん目線」なんだと思う。

2025年。強烈に人生のミッションの達成のために生きている。それだけ自分目線の目標を推進するタイミングだからこそ、何気ない日常での ちささん目線が大切。私の潜在意識が「ちささん目線を大切にしたい」と思っているんだと思う。
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